目次
Hatch 3で図案を準備する
伸縮性の高い水着素材(ライクラ、スパンデックス、ジャージー)にロゴを刺繍したことがある方なら、あの「嫌な予感」を知っているはずです。生地が滑る、枠張りで逃げる、針が入った瞬間にシワが出そうになる——伸び素材は、マシン刺繍の中でも特にシビアな相手です。
ここではHatch 3で、バービー風のシルエットを例に「見た目を作る」だけでなく、「不安定な素材で崩れないデータ」に仕立てる考え方を扱います。ポイントは、ステッチ角度で糸の流れを制御すること、そして“シートベルト”のように生地を押さえる「しつけ(バスティング)」を先に走らせることです。

画像の取り込みとロック
きれいなデジタイズの土台は、動かない下絵です。クリックのたびに画像が微妙にズレる状態では、輪郭も塗りも安定しません。

動画の手順(Step-by-Step):
- 画像を貼り付ける: コントラストがはっきりしたシルエット画像をHatch 3の作業画面に配置します。
- 画像をロックする: 画像を右クリックしてLock、またはキーボードのKでロックします。
現場目線の理由: 600%まで拡大してノードを詰める作業中、意図せず背景画像をほんのわずか(体感できない程度)ドラッグしてしまうことがあります。後で「アウトラインと塗りが合わない」「鼻先だけズレる」といった違和感の原因になりがちです。最初にロックして、ズレ要因を1つ潰しておくのが確実です。
流れを作るためにオブジェクトを分ける
初心者がやりがちなのが、シルエット全体を1つの大きな塗り(1オブジェクト)で済ませてしまうことです。動画では、意図的にパーツを分けています。
- オブジェクトA: 髪
- オブジェクトB: 顔/頭部の輪郭
なぜ分けるのか(刺繍の“流れ”の話): オブジェクトを分けると、パーツごとにステッチ方向(角度)を変えられます。髪は毛流れに沿って落とし、顔は輪郭に沿う方向にする、といった「光の当たり方の差」を作れるため、単色でも立体感が出ます。
流れを出すデジタイズ技術
「ただの塗りつぶし」から「刺繍らしい表現」に変わるのは、ステッチタイプと角度を意識し始めた瞬間です。ここでは大面積をタタミ(Tatami)で作ります。伸び素材ではサテンの強い引きよりも、タタミの方が安定しやすい場面が多いのが利点です。
大面積はタタミで作る

手順(髪オブジェクト):
- Digitize Closed Shapeを選びます。
- オブジェクトプロパティでステッチタイプがTatamiになっていることを確認します。
- 外周をトレース:
- 直線/角は左クリック
- カーブは右クリックで曲線に切り替え
補足(仕上がりに効く小技): 動画では、トレース開始位置を輪郭ギリギリではなく、少し内側から入っています。これは、止め縫い(タイイン/タイオフ)や糸端が尖った角に出てしまうのを避け、塗りの中に“埋める”ための安全策として有効です。
髪の毛流れに合わせてステッチ角度を入れる
タタミのデフォルト角度のままだと、髪の表現が「平板」に見えやすくなります。ここは角度を手で指示して、重力方向の流れを作ります。

形状の整え方:
- オブジェクトを選択してH(Reshape)
- スペースバーでノードを「直線(角)」と「曲線(丸)」に切り替え、ギザつきを抑えます。
作業ルール(現場の定番): ノードは少ないほど縫いが滑らか。 必要以上にノードを増やすと、縫い目がガタついたり、機械の動きが細かくなって音も荒れやすくなります。

ステッチ角度の追加:
- 髪オブジェクトを選択します。
- Add Stitch Angles(またはCtrl + H)を選びます。
- 髪の流れに沿うように、角度ラインを引きます。
- Enterで確定します。

見た目チェック: 画面上のシミュレーションで、ポニーテール方向に“流れ”が出ているかを確認します。流れが出ていれば、単色でも質感が立ちます。
伸び素材(水着)向けに最適化する
水着は四方向に伸びやすく、しかも薄手で滑りやすいことが多い素材です。ここでは「ソフト側(ソフト設定)」と「現場側(物理固定)」の両方で対策します。
Auto FabricでJersey/Lycra向けに設定する
サンプルは小さめ(約1.5インチ高)で、伸び素材では沈み込みやすいサイズ感です。

動画の手順:
- Calculated Design > Auto Fabricを開きます。
- リストからJerseyを選びます。
- 推奨内容を確認します(動画では“Two Tearaway”の推奨が表示されます)。
補足(コメントで触れられた実物条件): コメントでは、顧客支給の既製水着が「メッシュの裏地+表のピンクのスイム用ライクラ」の2層で、下のメッシュは粘着スタビライザーに付きやすい一方、上の層が“浮きやすい”ため、ズレ防止としてしつけを使ったと説明されています。二重構造は層間ズレが起きやすいので、ソフト設定だけでなく固定工程が重要になります。
引き補正(Pull Compensation)の考え方
Auto Fabric(Jersey)を使う狙いは、伸び素材で起きやすい「縫うと細る/縮む」方向のズレを見越して、密度や補正を自動調整することです。
- 考え方: 針が入ると生地が内側に引かれます。補正は、その分を見越して外側に逃がすためのものです。
- 見た目チェック: プレビューで少し“太め”に見える場合でも、実際の伸び素材上ではちょうど良く落ち着くことがあります。
安定縫いの決め手:しつけ(バスティング)
このガイドで1つだけ持ち帰るなら、伸びる水着にはしつけを入れることです。しつけは本縫い前に外周を仮止めし、表生地がスタビライザーの上で泳ぐのを止めます。
アウトラインのオフセットを作る

動画の手順:
- デザイン全体を選択します。
- Create Layouts > Create Outlines and Offsetsへ。
- Offset Outlineを選び、Single Runにします。
- グループ全体を囲う“1本の箱”になるよう、不要なアウトライン設定を外します(動画では単一のオフセットを作っています)。
コメントでの補足(なぜ必要だったか): 8 in 1枠+粘着スタビライザーを使っていても、二重構造の上層が浮くと、縫っている最中に引っ張られてズレます。しつけで上層も一緒に押さえることで、層間ズレを抑える狙いがあります。
外しやすくするためにランの最小長さを調整する
標準のランニングは細かく入りやすく、後でほどくときに生地を傷める原因になります。しつけは「長く、粗く」して、スッと抜ける状態にします。

動画の手順:
- しつけラインを選択します。
- Minimum Stitch Length(最小ステッチ長)を変更します。
- 数値について: 動画では「2」に設定しています。単位表示は環境により異なるため、画面上の単位を確認し、目的が“長いしつけ”になっているか(針落ち点が疎になっているか)で判断してください。
枠張りの負担を減らす選択肢: 水着は枠張り時に生地目が歪みやすく、締め付けで枠跡が出ることもあります。そこで、圧を均一にかけやすいマグネット刺繍枠へ移行する現場もあります。
- マグネット刺繍枠は、ネジでねじり込む動きが少なく、素材を“引っ張って固定する”リスクを下げやすいのが利点です。
注意:マグネットの安全管理
マグネット刺繍枠は強力です。指を挟まないよう、フレームの合わせ面に手を入れないでください。医療機器(ペースメーカー等)を使用している方は近づけないでください。磁気カードやスマートフォン画面にも近づけないよう管理します。
多針刺繍機での最終生産
ここからはPC上のデータ確認を終え、刺繍機での実縫いを想定したチェックに入ります(動画ではRicomaの多針機で縫い上げています)。
針落ち(Needle Points)とトリムを確認する
シルエットのような単純形状で、不要なトリムやジャンプが多いと、停止回数が増えて生産性が落ちます。

「T」チェック(動画の流れ):
- HatchでTを押して、ジャンプ/トリムの表示を確認します。
- 目安: 三角形が出ない=不要なトリムが少ない状態。

針落ちチェック:
- View > Show Design > Needle Pointsを表示します。
- 針落ち点(黒い点)の密集を見ます。
- 危険サイン: 小さな範囲に点が固まりすぎていると、伸び素材では“ミシン目”のようになり穴あきの原因になります。密集が見える場合は、細かすぎるステッチを減らす方向で見直します。
実縫い結果(縫い順の最終確認)
縫い順の要点: しつけは必ず最初に縫います。これが後工程のズレを抑える前提になります。

動画の手順:
- Sequenceを開きます。
- しつけ(Basting Run)を一番上へ。
- 順番:しつけ → 髪 → 顔。

縫いの観察ポイント: 動画では、最初にしつけで生地を押さえてから本縫いに入っています。伸び素材では、しつけが効いていないと生地がバタつきやすく、糸切れや目飛び、歪みの原因になります。まず「しつけの1周」でズレが出ていないかを確認できるのも、現場的に大きなメリットです。

仕上がり: ピンクのライクラ上に、シワの少ないクリスプなシルエットが出ています。しつけは、最小長さを長めにしたことで外しやすくなります。
量産の視点: チーム用などでまとまった枚数を回すようになると、ボトルネックは枠張りと位置合わせになりがちです。
- 同じ位置に安定して入れるには、ミシン刺繍 用 枠固定台(治具付きの枠固定台)が有効です。
- 多針機の現場では、枠固定台とricoma 8 in 1 枠セットのようなシステムで、ストラップ付近やウエスト周りなど“枠が入りにくい位置”の作業性を上げる運用もあります。8 in 1 枠セット ricoma 用はタイトな箇所の対応力で知られています。
準備(デジタイズ前/縫う前)
プロ品質は、ソフトを開く前に決まることがあります。初心者が抜けがちな準備を、作業前に確認してください。
見落としやすい消耗品と事前チェック
消耗品チェック:
- 針: 伸びるニットは針先の相性が出ます。素材を傷めない針選定を意識します。
- 糸: 水着用途では、使用環境(洗濯・伸縮)を想定して糸種を選びます。
機械コンディション:
- 下糸(ボビン)周り: 糸くずが溜まるとテンションが乱れ、伸び素材では特にトラブルが出やすくなります。縫う前に清掃しておくと安定します。
セットアップ(ソフト+データ検証)
書き出し前に、最低限ここだけは“合格”にしておくチェックリストです。
セットアップチェック:
- 下絵ロック: 背景画像をロック(K)してからトレースした。
- オブジェクト分割: 髪と顔を別オブジェクトにした。
- ステッチ角度: 髪に角度ラインを入れ、流れが出ている。
- 素材プロファイル: Auto Fabricが「Jersey」になっている。
- しつけ: Single Runのオフセットを作成した。
- しつけの長さ: 最小長さを調整し、針落ちが疎になっている。
- 縫い順: しつけがオブジェクト#1になっている。
運用(伸びる衣類の縫い手順)
運用チェック:
- 枠張り: 生地を必要以上に引っ張らず、歪みを作らない。
- トレース: 針が枠や治具に当たらないことを確認する。
- しつけ1周: 最初のしつけでズレがないか確認する。ズレるなら一旦止めて枠張りをやり直す。
- 本縫い: 糸切れや目飛びがないか監視する。
- 後処理: 枠から外し、しつけ糸を外して仕上げる。
注意:機械安全
伸び素材は縫製中に押さえたくなりますが、稼働中に手で生地を押さえるのは危険です。しつけや固定方法で対処し、手を針周りに近づけない運用にしてください。
トラブルシューティング(水着素材向け)
問題が出たら、まずは低コスト(針・固定・設定)から順に切り分けます。
| 症状 | ありがちな原因 | 対処(低コスト→高コスト) |
|---|---|---|
| 目飛び | 生地のバタつき/固定不足 | 1. 針を新品に交換する。<br>2. 枠張りを見直す。<br>3. スタビライザーやしつけで固定力を上げる。 |
| 穴あき/裂け | 針落ち密集/設定が重い | 1. Needle Pointsで密集を確認する。<br>2. 密度や細かいステッチを見直す。 |
| 沈み込み(刺繍が埋もれる) | 素材の伸び・表面の沈み | 1. プレビューと実縫いで沈みを確認する。<br>2. 必要に応じて設定を調整する。 |
| 歪み/斜行 | 縫製中のズレ | 1. しつけを先に縫う。<br>2. 固定方法(粘着・治具)を見直す。 |
まとめ
Hatch 3の自動調整に頼り切るのではなく、オブジェクト分割・ステッチ角度・しつけ(バスティング)という“手動の設計”を組み合わせることで、伸びる水着素材でも安定した刺繍に近づけます。
作業が趣味から生産(複数枚の受注)に寄ってくると、枠張りと位置合わせが利益を削る工程になります。その段階で、道具立てを見直す価値が出ます。
- 枠張りに時間がかかる/枠跡ロスが出るなら、ricoma mighty hoop スターターキットのようなマグネット枠運用を検討するのも一手です。
- 小型フォーマット機での運用なら、マグネット刺繍枠 ricoma em 1010 用の互換性確認が効率化につながる場合があります。
結論: 良いデジタイズは生地を守り、良い治具・枠運用は利益を守ります。まずはデータ設計を固め、必要になったタイミングで設備を段階的に強化してください。
