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刺繍で「隙間(ピンチ)」が出る原因とは?安定化とデジタイズで直す実践講座

誰でも一度は経験があります。ミシンは順調に動いていたのに、仕上がりを見たら「塗りつぶしの色が止まったところ」と「アウトライン」の間に白い隙間がくっきり。これがいわゆる「ピンチ(pinch)」で、現場では「ギャップ」「位置ズレ(レジずれ)」として扱われる症状です。
結論から言うと、刺繍は“生地の変形”との戦いです。
「ピンチ」は、本来つながって見えるはずのフィル同士(またはフィルとアウトライン)が、縫い上がりで離れて見える現象です。動画のパジャマ柄の例では、青いフィルが一定方向に進むことで生地を“押し出し”、次のセクションが別方向から戻ってくることで、逃げ場のない生地が盛り上がってズレ、結果として隙間が見える…という流れでした。
安心してほしいポイントはここです:この不具合は「物理現象」です。 ミシンが壊れたとは限りません。原因は生地の動きですが、ソフト側で「土台(アンダーレイ)」と「縫い順(ステッチパス)」を設計し直すことで、かなりの確率で改善できます。

この手順で身につくこと
ボタンを闇雲に押すのではなく、「なぜ効くのか」を理解しながら、動画と同じ流れでファイルを組み直します。
- 力の向きを読む: Slow Redrawで“押している方向”を見抜く
- 安定層を作る: Complex Fillで手動アンダーレイ(安定化レイヤー)を追加
- 内側の図柄を守る: 必要箇所は穴あけ(ホール)で縫わない領域を作る
- 物理を制御: アンダーレイ角度(クロス)、密度、エッジ形状を調整
- 縫い順を支配: 土台を先に縫ってから本体を縫う
- 自滅を防ぐ: 開始点/終了点を動かし、アンダーレイ自身のピンチを回避
- 仕上げ: 絶対値プル補正とアウトライン太さで位置合わせの余裕を作る
自動アンダーレイが効かない理由

動画で扱われている典型例は、「3Dプレビューでは良さそうなのに、縫うと崩れる」パターンです。特にオートデジタイズ(自動変換)由来のデータで起きやすいです。
動画内で問題になっていた構造的な失敗は主に2つです。
- 微小な抜け(マイクロボイド): アウトライン付近に小さな空きが残り、人が手で作るなら重ねる部分が“開いたまま”になっている
- オブジェクトの分割: 1つのきれいなフィルではなく、細切れのサテン/タタミ相当のオブジェクトに変換されている。Florianiではこの状態だと、アンダーレイをONにしても「細切れ単位」にしか効かず、面全体を支える“広い土台”になりにくい
現場理解:プッシュ&プルを「生地=パン生地」で考える
枠張りが完璧でも起きる理由を、感覚でつかみます。
- プル(引き): 針が刺さり糸が締まると、ステッチ方向へ生地が引かれる
- プッシュ(押し): 糸が詰まるほど、ステッチに直角方向へ生地が押し出される
基本の 刺繍ミシン 用 枠入れ で「ドラムの皮みたいにピン」と張りすぎると、縫う前に生地目が歪み、針穴で生地が緩んだ瞬間に戻ってズレることがあります。特にパジャマのような柔らかい素材は影響が出やすいです。
注意: 安全最優先。 テスト縫い中や、ミシン側での確認運転では、針周りと可動部(キャリッジ)に手を近づけないでください。急なスタート、糸切り動作、針落ちで重大なケガにつながります。電源ONで駆動状態のときは、針棒付近に手を入れないでください。
ステップ1:Complex Fillで「安定化レイヤー」を作る

準備:見落としがちな消耗品と事前チェック
データを直す前に、物理側の変数を潰します。ピンチ対策は「小さな変更で見た目が大きく変わる」ため、テスト条件がブレると判断を誤ります。
消耗品・準備チェック:
- 針の状態(触って確認): 針先に爪を軽く当てて引っかかりがあればバリ(欠け)です。バリがあると生地を余計に押し、ズレを増やします。交換してください。
- ボビン周りの清掃: ボビンケース周辺の糸くずはテンションを変え、結果的に引き量(プル)も変わります。
- 素材の一致: 伸びるパジャマニット用のデータを、硬いデニムでテストしても挙動が変わります。必ず同条件で。
量産(50枚以上)では、オペレーター差が致命的です。人によって枠張りの強さが変わると、データを直しても結果が安定しません。刺繍用 枠固定台 を使うと、枠張りのテンションと位置を機械的に揃えやすくなり、デジタイズ修正の効果を再現しやすくなります。
チェックリスト(準備)
- ファイル保護: 元データを複製して保存(例:
Design_v2_FIX.emb) - 材料一致: 失敗した縫い見本と同じ生地+スタビライザー構成を用意
- ハード確認: 新品針に交換(ニットはボールポイント、布帛はシャープ)
- テンション確認: 上糸を引いて、ガタつきではなく滑らかな抵抗があること
- ボビン確認: テストが最後まで縫える残量があること
1) Slow Redrawで不具合を診断する
「Slow Redraw(スロー再描画)」またはシミュレーターで、ただ眺めるのではなく“解析”します。どこで生地が押され、どこで既に縫った部分にぶつかって盛り上がるかを探します。動画ではフィルが右→左に進み、その後戻る動きがあり、既縫い部に押し付ける位置でリッジが出ていました。

チェックポイント: 画面上のタイムラインと、実際の生地で隙間が出た場所を「同じ箇所」として指差せる状態にします。
2) 修正レイヤー用に新しい色を追加する
動画では新しい色(オレンジ)を追加しています。
- 理由: 見やすさだけでなく、シーケンス管理で対象を分離しやすくなります(単針機なら停止点にもなります)。

3) ランニングで外周を「なぞり縫い」する
Runツールで、デザイン外周の範囲を手動で一周なぞります。

現場のコツ: これは2つの役割があります。
- 境界の目印: どこまでアンダーレイを入れるかの“地図”になる
- 仮止め: 量産では、スタビライザーと生地を先に軽く固定し、本縫いの打撃が始まる前にズレを抑える(バスティング的役割)
成功基準: この外周ランは、意図するアート境界の“内側”に収まっていること。
4) Complex Fillでアンダーレイ用オブジェクトを作る
Complex Fillツールに切り替え、黒アウトラインの内側に形状をプロットします。端ピッタリに合わせる必要はありません。これは表面ではなく「土台」です。

成功基準: 問題の青い面を覆う「1つのまとまった形状」になっていること。細切れの自動変換を、面で支える“スラブ状の土台”に置き換えるイメージです。
5) 内側要素のために穴(ホール)を定義する
動画では車の図柄部分を避けるため、Hキーで「穴(ホール)」を作っています。

重要な考え方: 密度の高い要素(車など)の下に重いアンダーレイを入れると、厚みと硬さが増えすぎて段差が出たり、針の逃げ(針曲がり/針折れ)を誘発します。密な内部要素が乗る場所は、基本的に“縫わない空間”を作っておくのが安全です。
ステップ2:角度と密度を調整して「効くアンダーレイ」にする

ここから、ただのオレンジ形状を「安定化レイヤー」に仕上げます。
1) アンダーレイ角度をフィルに対して直交(90°)にする
動画ではShapeツールで、上のフィルに対して約90°になるよう角度を回しています。

なぜ効くのか(構造の考え方):
- 上のフィルが横方向に走ると、横方向の引き(プル)が強くなる
- アンダーレイも同方向だと、その引きを助長してしまう
- そこでアンダーレイを縦方向にして“クロス”を作ると、上層の動きを下層が抑えます(合板の繊維方向を交差させるイメージ)
目安: 上が45°なら下は135°。常にクロスを作る。
2) 密度を落とす(適正ゾーンを作る)
動画ではアンダーレイの密度を大きく粗くしています。

数値の目安(動画の設定):
- アンダーレイ密度目標: 1.5mm〜2.0mm
チェックポイント: 画面上で“ベタ塗り”ではなく、メッシュ(格子)に見えること。
3) エッジタイプをSquareに変更する
動画ではエッジタイプをChiseledからSquareへ変更しています。

理由: 構造用のアンダーレイでは、輪郭の際を支えるためにエッジが明確な方が有利です。
現場視点: フーディーやパジャマのような柔らかい素材で、縁の歪みや枠跡(枠跡が原因で生地が戻ってズレるケース)に悩むなら、枠側の見直しも有効です。マグネット刺繍枠 は、従来枠の「引っ張ってネジで締める」歪みを減らし、縁の形を保ったまま保持しやすくなります。
ステップ3:縫い順(シーケンス)で生地の動きを抑える

1) アンダーレイを最初に縫う(基礎が先)
新規オブジェクトは通常、データ末尾に追加されます。Sequence Viewで、オレンジのアンダーレイを先頭(Position 1)へドラッグします。
チェックポイント: シミュレーターで、オレンジの格子が「最初に」縫われること。
2) 開始点/終了点を動かして「耕す動き」を防ぐ
ここが動画の肝です。Slow Redrawで見ると、アンダーレイ自体が中央から外へ押し出して“ピンチを作っている”ことがあります。
対処: 開始点(緑)と終了点(赤)を、形状の両端に離します(例:下→上)。
理屈: 中央から押し広げるのではなく、片側から順に“塗っていく”ように縫わせると、生地の逃げ場が作れます。
判断フロー:ソフト修正か、枠張り・安定化か?
機械要因を放置してデータだけ触ると時間を失います。
- 安定した生地(デニム/帆布)でも隙間が出る?
- はい: デジタイズ要因が濃厚。上の手順で修正
- 不安定な生地(ジャージ/鹿の子)だけで出る?
- はい: 安定化(スタビライザー)が主因の可能性。カットアウェイを検討し、必要に応じてスプレー糊でズレを抑える
- 枠跡の輪(テカり/リング)が出ている?
- はい: 枠張りが強すぎて、生地が伸びて戻っている
- 対策: 浮かし(フローティング)や、保持圧を分散できる マグネット刺繍枠 を検討
仕上げ:プル補正とアウトライン太さで「位置合わせの余裕」を作る
1) 絶対値プル補正(0.3mm)を入れる
動画ではアンダーレイに 0.3mmの絶対値プル補正を適用しています。
絶対値と%の違い:
- %: オブジェクトサイズに応じて増減する
- 絶対値: サイズに関係なく一定量を足す(例:0.3mm)
- 推奨: 隙間対策は“狙った量”を入れたいので、絶対値が扱いやすい
注意: 入れすぎは禁物です。過剰な補正(0.6mm超など)は太り・歪みの原因になります。
2) アウトライン太さを125%に上げる(安全マージン)
最後に黒アウトライン(動画ではカラム/アウトライン)を選び、太さを125%に上げます。
理由: ごまかしではなく設計です。アウトラインを少し太くすると、微小な残りギャップを視覚的にカバーでき、ミシンの位置合わせ誤差に対して許容度が増えます。
セットアップ(再現性のあるテスト縫いのやり方)
修正データは、テスト条件が揃って初めて評価できます。
テストの目安:
- 速度: 可能なら落とします。1000SPM機なら 600〜700SPM でテスト。高速ほど生地変形が増えます。
- スタビライザー: ニットのテストは カットアウェイ を優先。ティアアウェイは恒久支持が弱く、隙間が再発しやすいです。
テストのたびに枠張りで時間を使うとコストが増えます。hooping station for embroidery machine は、シャツ#1と#50の枠張り条件を揃えるための定番手段です(枠張りの再現性が上がるほど、データ修正の効果検証が速くなります)。
注意: マグネットの安全。 強力なマグネット刺繍枠は業務用工具です。皮膚を強く挟んで血豆になることがあります。ペースメーカー等の医療機器、磁気に弱い電子機器やカード類には近づけないでください。
チェックリスト(セットアップ)
- 生地: 失敗時と同じ素材(Tシャツ用をフェルトで試さない)
- 速度: 600〜700SPMに制限
- 糸道: 絡みなし/コーンは安定して立っている
- 枠張り: ドラム感は“張るが伸ばさない”(歪むほど引っ張らない)
操作(Floriani内の手順まとめ)
- 診断: Slow Redrawで“押し方向”と隙間位置を一致させる
- 分離: 新しい色レイヤーを追加(見やすさ+管理)
- 外周: Runで範囲をなぞる(内側に収める)
- 面: Complex Fillで問題領域を覆う形状を作る
- 除外: Hで内部要素(車など)に穴を作る
- 角度: Shapeツールで上フィルに対し約90°へ
- 密度: 1.5〜2.0mm程度に落とす
- エッジ: Edge TypeをSquareへ
- 順序: アンダーレイをPosition 1へ移動
- 流れ: 開始点/終了点を両端へ(例:下→上)
- 補正: 絶対値プル補正 0.3mm
- 余裕: アウトライン太さ 125%
チェックリスト(操作)
- 方向: アンダーレイは上フィルに対して直交している?
- 密度: アンダーレイがベタではなく格子に見える?
- 順序: オレンジが最初に縫われる?
- 流れ: アンダーレイが下→上など一方向にスムーズ?
- 範囲: 隙間が出た領域を新形状が覆っている?
- アウトライン: 太さが残りギャップを拾える設定?
品質チェック(良い状態の見分け方)
スタート前にシミュレーターで最終確認します。
- 盛り上がりが少ない: アンダーレイが“波打たず”フラット
- はみ出しがない: アンダーレイが黒アウトライン外へ出ていない
- 移動が素直: 左右に不自然に飛び回らない
業務で毎日回すなら、再現性が利益です。マグネット刺繍枠 用 枠固定台 のような運用は、スピードだけでなく「人の枠張り癖」を減らし、位置ズレの再発を抑える目的でも選ばれます。
トラブルシューティング
症状:隙間は小さくなったが、まだ出る
- 原因の可能性: プル補正が不足
- 対処: 絶対値プル補正を0.3mm→0.4mmへ
- 補足: 仕上がりのふくらみを保ちたい場合は、水溶性トッピングで押さえを補助する方法もあります
症状:アンダーレイが線の外に見える
- 原因の可能性: プル補正が強すぎる、またはアウトラインが細い
- 対処: プル補正を0.2mmへ下げる/またはアンダーレイのノードを少し内側へ寄せる
症状:下糸側に糸玉(鳥の巣)ができる
- 原因の可能性: 縫い始めに上糸端を押さえていない、またはテンションが効いていない
- 対処: 最初の数針は上糸端を保持し、押さえが確実に下がっていることを確認する
症状:アウトラインが乗らない(位置ズレが目立つ)
- 原因の可能性: 枠内で生地が滑っている
- 対処: 枠の内枠に滑り止めテープ等で摩擦を追加する、またはマグネット刺繍枠で保持力を安定させる
まとめ:結果と現場向けアップグレード視点
今回の修正は、力任せではなく「土台設計」で生地を安定させる考え方です。
もし同じ問題が頻発するなら、道具と工程の見直しも検討してください。
- 枠張りが人によってブレる: hoopmaster 枠固定台 系の治具で位置とテンションを標準化
- 枠跡/ピンチが出やすい: デリケート素材はマグネット刺繍枠で保持圧を分散
- 段取り替えの停止が多い: 多針刺繍機なら色替えの停止を減らし、データ作業に時間を回せます
刺繍は「表現」と「工学」が半分ずつ。今回はその“工学側”を一段深く扱えるようになりました。
