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ニットが刺繍で難しくなる理由
ニットの服(Tシャツ、フーディー、やわらかいリネン混など)は、伸びて、通気して、きれいに落ちる(ドレープする)のが魅力です。ところがマシン刺繍では、その「動く性質」そのものが難易度を上げます。ニットに針を打つということは、伸びない糸の“固定された面”を、X・Y方向だけでなく厚み方向にも動く面に載せる作業になります。
織物(しっかりした綿やデニム)と同じ感覚で扱うと、すぐに問題が出ます。生地が歪む/糸が生地に沈んで見えなくなる/そして厄介なのが「枠跡(フープ跡)」です。内枠・外枠で押さえ込んだ部分の繊維がつぶれ、蒸気を当てても戻らないことがあります。
本記事では、Kathyの実演内容をベースに、ニット刺繍の“勘頼み”をやめて、毎回同じ品質に寄せるための手順を整理します。キーワードは フローティング(浮かせ枠張り)。ニットを無理に硬くするのではなく、スタビライザーを一時的な「舞台」にして、刺繍中だけ安定させ、最後は洗い落としてニット本来の風合いに戻す考え方です。

考え方の切り替え: ニットを“固める”のではなく、スタビライザー側で“支える”。刺繍が終わったら支えを消して、ニットのやわらかさを取り戻す——この発想が、枠跡と歪みを減らします。

軽い(密度の低い)デザインを選ぶ
ミシンに触る前に、勝負はほぼ決まります。実演では、Kathyが生地を手で引っ張って「2方向ストレッチか/4方向ストレッチか」を確認していました。
触って判断する目安: 生地を軽く引いて、輪ゴムのように瞬時に戻るタイプは、刺繍糸に強い反発がかかります。戻りがゆっくりなタイプは、刺繍後に“たわみ”やすく、周辺が波打ちやすい傾向があります。
ニット刺繍の鉄則は「密度管理」です。たとえば4インチ四方に2万針のような高密度は、薄いリネンニットにとっては“硬い板”を貼るのと同じ。実演でも、密度が高くて「それ単体で立つ」鳥のサンプルは、ニットには不向きな例として示されていました。理想は、デザインが“呼吸する”ことです。

実務で使えるデザイン判定(信号機ルール)
- 青信号(OK): アウトライン中心、スケッチ風、ビーンズテッチ、軽いフィル(低密度)。
- 黄信号(要注意): 一般的なロゴ。今回の「洗い落とし」だけだと支えが足りない場合があり、カットアウェイ系が必要になることがあります。
- 赤信号(停止): 胸一面の高密度タタミ。薄手ニットのドレープを確実に殺します。
仕事で繰り返すなら、「ニット向けデータ」だけを集めたフォルダを作っておくと、毎回の迷いが減ります。
切り札:粘着タイプの水溶性スタビライザー(Wet N Gone Tacky)
実演の超薄手リネンニットでは、Kathyは 粘着タイプの洗い落としスタビライザー(Wet N Gone Tacky) を選びました。狙いは明確です。
- 粘着で保持: 枠で生地を挟み込まず、押しつぶし(枠跡)を避ける。
- 洗い落とせる: 仕上げ後に厚みが残らず、風合いを守れる。
この方法の核は、ニットを内枠・外枠の“機械的ストレス”に入れないことです。

粘着スタビライザーの準備(標準手順)
- スタビライザーだけを枠張り: Wet N Gone Tackyを、紙面を上にして刺繍枠に張ります。
- 張り具合チェック: ネジを締め、軽く叩いたときに“太鼓のような音”がするくらいまで。※張るのはスタビライザーであって、生地ではありません。
- 紙に切れ目: ピン等で紙に 「X」 の切れ目を入れます(下の不織布まで切らない)。
- 紙を剥がす: 粘着面を露出させます。

補足:紙だけを切る「タッチ」
切れ目を入れるときは、ピンの重み程度で十分です。下のスタビライザー本体を切らないのが重要。スタビライザーに切れが入ると弱点になり、刺繍中の振動で裂けて位置ズレの原因になります。
手順:フローティングで枠跡を防ぐ
ここからが「フローティング(浮かせ枠張り)」の本体です。デリケート素材を物理的に傷めずに扱うための定番手法です。
手順1 — ガーメントを載せる(フローティング)
Kathyは、粘着面にリネンニットのシャツをそっと置いていました。
やり方: いきなり押さえ込まず、まず“置く”。その後、手のひらで 中心から外側へ なでるように密着させます(スマホの保護フィルムを貼る感覚)。

チェックポイント:
- 見た目: 生地目がまっすぐか(ニットの縦筋などを目安に)。
- 触感: 生地が「リラックス」しているか。ピンと張ると、刺繍後に戻ってシワ(波打ち)になります。
狙い: 針が打つ間だけ動かないが、繊維は潰さない/伸ばさない。
手順2 — 糸沈み防止にトッパーを置く
ニットは表面に凹凸(ループ)があります。バリアがないと、細いサテンやアウトラインがループの間に沈んで見えにくくなります。実演では、透明の 水溶性トッパー(クリアフィルム) を使用していました。

チェックポイント: デザイン範囲より周囲に最低1インチ程度の余裕を持たせ、シワなくフラットに置きます。
狙い: 糸が生地の上に乗り、輪郭がシャープに見える。
手順3 — 「洗い落としだけ」にしない判断基準
ここは重要な分岐です。実演では軽いトンボ(ドラゴンフライ)デザインなので洗い落としで成立していますが、用途と密度によっては“残す支え”が必要になります。

長持ちさせる考え方:
- 洗い落とし(実演の方法): 透け感が強く、裏面に残したくない薄手素材+軽いデザイン向き。
- ノーショーメッシュ(カットアウェイ): ニット製品の定番。やわらかいメッシュを残すことで、洗濯を重ねても刺繍周りの歪みを抑えます。
判断フロー:ニットの条件 → スタビライザー戦略
- デザインが高密度/日常使いのアイテム(ポロ・Tシャツ)か?
- はい: 洗い落としだけで押し切らず、接着タイプのノーショーメッシュ(カットアウェイ)を検討。
- いいえ: 次へ。
- 生地が薄い/透ける/極端にデリケート(リネンニット等)か?
- はい: 粘着の洗い落としが有効(本記事の方法)。
- いいえ: カットアウェイが安定。
- 枠跡が出やすい素材か?
- はい: フローティングは必須。生地を直接枠に挟まない。粘着スタビライザー、またはマグネット枠を検討。
現場のボトルネックを解消する道具選び
1枚だけなら、粘着スタビライザーでのフローティングは非常に有効です。ただし、50枚などの受注になると、紙を剥がして貼り直す工程が時間を食い、段取りのムラも出ます。
そこで検討対象になるのが マグネット刺繍枠 です。
- 原理: 内枠・外枠の摩擦ではなく、上からのクランプ力で保持。
- 利点: ネジ締めで生地を引っ張りにくく、枠跡リスクを下げやすい。
- 段取り: スタビライザーと生地を置いて、上枠を“カチッ”と載せるだけ。
家庭用機向けなら magnetic hoops for babylock のような選択肢で、粘着紙の手間を減らせます。工業用途では magnetic embroidery hoops が高速段取りの定番です。
注意:マグネットの安全 強力なマグネット枠は指を挟む危険があります。取り扱いは慎重に。ペースメーカー等の医療機器、クレジットカード類には近づけないでください(実演では距離の目安として6インチが語られています)。
Baby Lock Vestaでの無線転送(Design Database Transfer)
実演では Design Database Transfer(無線転送ソフト) を使い、USBの抜き差しなしでデータを送っていました。
ソフト側で行っていた操作(実演どおり)
- ファイル 「DRF-14.pes」 を選択
- 青い矢印をクリック
- 送信先 「SewingMachine259」 を選択
- 転送を実行


チェックポイント: 転送完了の表示(完了ポップアップ等)を確認し、ミシン側にもデータが来ているかをすぐ確認します。
狙い: データ投入の手戻りゼロ。
ミシン画面での配置・編集の要点
現場のコツ: 画面上の色変更は見た目だけでなく、段取りの「作業指示(ジョブメモ)」として使えます。特定のシャツで配色を変える予定なら、刺繍開始前に画面上で色を変えておくと、うっかり同じ糸で走らせる事故を減らせます。
バスティング枠(バスティングボックス)と水溶性糸が必要な理由
フローティングは粘着で保持しますが、刺繍中の振動でズレることがあります。そこで バスティング枠 が“シートベルト”になります。
Vestaでバスティング枠を作る手順(実演の流れ)
- メニュー: 「Frame(フレーム)」系のメニューへ
- 形: 四角(Square)を選択
- 縫い方: 直線(Straight Stitch/Shape 002)
- サイズ: デザイン外周より余裕を持たせて拡大
- トンボ:2.40\" x 2.40\"
- バスティング枠:3.89\" x 3.89\"


チェックポイント: 画面上で、バスティング線がデザインに触れていないこと。触れると、後で外す作業が大変になります。
狙い: トッパー/ニット/スタビライザーを“1枚のユニット”として固定する。
縫う順番(実演どおり)
Kathyは、最初にバスティング枠を 水溶性糸(Wash-Away Thread) で縫っていました。


水溶性糸にする理由: 通常糸でバスティングすると、ピンセットで抜く際に薄手ニットへ穴を開けるリスクがあります。水溶性糸なら、最後に水で溶かせるため、撤去が安全で速いです。
事前チェックリスト(省略しない)
- 針: 75/11のボールポイント(BP)を使用(鋭い針はニット繊維を切りやすい)。
- 伸び確認: 2方向/4方向のストレッチを把握した。
- デザイン: 高密度ではない(軽いデザイン)ことを確認した。
- 資材: 下糸(ボビン糸)、トッパー、水溶性糸、スタビライザーを準備した。
段取りチェック(枠張り・治具側)
- 枠の張り: スタビライザーがしっかり張れている(太鼓のような張り)。
- フローティング: 生地を引っ張らずに密着させた(生地を太鼓のように張らない)。
- トッパー: シワなく全面を覆っている。
- 安全: 針周りに手を入れない。
運転チェック(ミシン側)
- 転送: Wi-Fiでデータを読み込んだ。
- バスティング: バスティング枠を追加し、水溶性糸で縫う段取りにした。
- 監視: 最初の100針は必ず見る。波打ちが出たら即停止。
- 取り外し: 粘着から無理に引き剥がさず、スタビライザー側をめくるように外す。
効率化と量産の考え方
実演では、複数デザイン時の「カラーソート(色順の最適化)」にも触れていました。これは量産の入口です。
位置決めに時間がかかる(左胸ロゴを毎回同じ位置に置けない)場合は、枠固定台 のような枠固定台で“置き位置を治具化”すると、再現性が上がります。
また、敏感なスポーツニット等で枠跡によるロスが出るなら、マグネット刺繍枠 babylock 刺繍ミシン 用 は贅沢品ではなく、不良(廃棄)を減らすための道具になります。
工業レベルの段取りでは、刺繍用 枠固定台 のような枠固定台と magnetic embroidery hoops の組み合わせで、枠張りを標準作業に落とし込みやすくなります。
トラブルシューティング
不具合が出たら、闇雲に設定を触る前に「原因→確認→対策」で切り分けます。
| 症状 | 原因(起きていること) | その場の対処 | 根本対策 |
|---|---|---|---|
| 枠跡(光ったリング状の跡) | 内枠の圧で繊維が物理的につぶれた。 | 蒸気で戻る場合もある(確実ではない)。 | フローティング(本記事)または マグネット刺繍枠で摩擦・圧迫を減らす。 |
| 糸が沈む(輪郭がぼやける) | 糸がニットのループ間に落ちている。 | 水溶性トッパーを追加。 | トッパーを標準化、必要に応じて下縫い(アンダーレイ)を見直す。 |
| トッパーがバタつく | 固定されておらず、針や風で動く。 | バスティング枠で固定。 | トッパー固定を工程化(実演はバスティング枠)。 |
| デザインが潰れる/歪む | 貼るときに生地を引っ張り、縫製中に戻った。 | やり直し。 伸ばさずに貼り直す。 | 伸びやすい場合は、用途に応じてノーショーメッシュ等で構造を作る。 |
注意:機械安全 刺繍中の枠アーム周辺は危険です。糸切りやジャンプ糸処理は、必ず停止してから行ってください。
マグネット枠の安全メモ
babylock マグネット刺繍枠 や マグネット刺繍枠 を検討する場合:
- 保管: 付属のスペーサーを挟んで保管。直に吸着すると外すのが非常に大変です。
- 挟み込み: 上枠は持ち手を持ち、指を下に入れない。
仕上がりと後処理
実演の仕上がりは、リネンニット上でも歪みが少なく、やわらかさを保ったトンボ刺繍でした。

仕上げは、裏側の糸始末を整え、不要部分をカット。最後にぬるま湯で洗い落とします。トッパー、粘着スタビライザー、バスティングの水溶性糸が溶け、刺繍だけが残ります。
結論: ニット刺繍は「生地の動きを尊重する」こと。
- レベル1(手順): 本記事のフローティング+粘着洗い落とし。
- レベル2(道具): 枠跡や段取り時間が課題なら、マグネット枠で摩擦ストレスを減らす。
- レベル3(耐久性): 日常着・ロゴ用途は、ノーショーメッシュ等の“残す支え”で長期安定を狙う。
この流れを押さえると、難しいニットが「安定して受注できる素材」に変わります。
